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奈良の歴史に残る土木工事「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」

奈良県をはじめ大阪・京都・神戸など関西一円で建設業を営む中村建設(株)のサチです。

奈良には、古くからたくさんの歴史が残っています。お寺や古墳だけでなく、実は「土木工事」にまつわる歴史もたくさんあります。

今回は、飛鳥時代に行われた大規模な土木工事、「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」をご紹介します。

「狂心の渠」って何?

「狂心の渠」とは、飛鳥時代の斉明天皇の時代に造られたとされる大規模な「渠(みぞ)」、つまり水路・運河のことです。

『日本書紀』によると、斉明天皇2年(656年)、水工に命じて香具山の西から石上山まで渠を掘り、舟200隻を使って石を運んだと記されています。運ばれた石は、宮の東側の山に積み上げ、石垣を築くために使われたとされています。

そして、あまりにも大規模な工事だったことから、当時の人々はこの渠を

「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」

と呼んだと『日本書紀』には記されています。

3万人を超える人が工事に関わった?

『日本書紀』には、渠を掘るために3万人余りが動員されたと記されています。現代の私たちから考えても、とてつもない大規模工事です。当時は現在のような重機もありません。

人の力を中心に、山から石を切り出し、運び、水路をつくり、石垣を築いていく。

「どうやって工事をしたのだろう?」

建設業に携わる私たちとしては、そんなことを想像するだけでもワクワクします。

「狂心の渠」は今も残っている?

では、その運河は現在どこにあるのでしょうか。実は、「狂心の渠」の正確なルートについては、現在も特定されていません。

一方で、明日香村では7世紀中頃の大規模な溝の遺構が発見されており、「狂心の渠」の一部ではないかと推定されています。奈良県の資料では、飛鳥宮跡東側の酒船石遺跡で見つかった石垣についても、『日本書紀』に記された工事との関連性が高いとされています。

つまり、1500年近く前の土木工事の痕跡が、今も奈良の地中に残っているのです。

奈良は「土木の歴史」が残るまち

「奈良」というと、どうしても大仏やお寺、鹿などを思い浮かべます。でも、少し視点を変えてみると、

「この道は、昔の人がどうやってつくったんだろう?」

「この石は、どこから運ばれてきたんだろう?」

そんな疑問から、奈良の歴史を見ることができます。飛鳥時代の人々も、暮らしやまちをつくるために、水を利用し、石を運び、土地を整えていました。

それは、現代の建設業にも通じるものがあります。時代が変わり、重機やICT、さまざまな技術が生まれても、「人々の暮らしをより良くするために、社会基盤をつくる」という建設の役割は変わりません。

1500年前の奈良で行われた大規模な土木工事。「狂心の渠」という名前には、当時の人々の驚きや負担への思いも込められていたのかもしれません。

出典:日本遺産ポータルサイト

https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/948/

飛鳥 東垣内遺跡 (狂心渠)

〒634-0103 奈良県高市郡明日香村飛鳥707

 

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